日曜日に暇にまかせて、2時間の散歩をした後に、
数年前に購入したきり積んでいた大岡昇平さんの「野火」を読みました。
何度か読もう、読もうと思っていたのですが、
ついつい面倒になりそのままにしていた「野火」。
遠藤周作さんの「沈黙」に引き続き、完全読破しましたが
ぐいぐいとその世界観に引き込まれていきました。
「野火」を読んでいて思ったことは、その複数の「私」を見つめる視点です。
私が「私」を語る視点。
兵隊の仲間が「私」を見る視点。
林から「私」を狙っているかのような視線。
神の天上から孤独な「私」を見つめる視線。
今、書斎で過去の「私」を記述しているという現在の「私」の視線。
「野火」が焚かれているところにいるであろう、比島人からの「私」への視線。
つねに私は誰かに見られているのではないか、
監視されているのではないかという孤独感が胸を打ちます。
…
銃は国家が私に持つことを強いたものである。
こうして私は国家に有用であると同じ程度に、敵にとっては危険な人物になったが、私が孤独な敗兵として、国家にとって無意味な存在となった後も、それを持ち続けたということに、あの無辜(むこ)の人が死んだ原因がある。
中略
私は孤独であった。
恐ろしいほど、孤独であった。
この孤独を抱いて、なぜ私は帰らなければならないのか。
この道は昨夜は二度と帰ることはあるまいと思っていた道であった。
その道を逆に通ることは、通らないことより、一層奇怪であった。
山の畠の何本かの芋に限られた私の生は、果たして生きるに値するだろうか。
しかし死もまた死ぬに値しないとすれば、私はやはり生きねばならぬ。
少なくともあの芋のあるところまで、私が歩くのを止めるものはこの世にはない。
私には私自身の足取りがよく見えた。
「野火」 大岡昇平 新潮社 88~89ページより引用させて頂きました。
ありがとうございました。
食料もなく、軍隊からはぐれてしまった孤独な敗兵にとり、「生きる」ということの意味。
自死しないことの意味は、「死ぬに値しない」から「生きなければならない」という、命の選択をした最後の残った結果であり、その面で人間が最後に持つ選択の自由について語ったフランクルさんの「夜と霧」も深く思い出すことになりました。
フランクルさんは、「夜と霧」でこのように語っています。
おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、
収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。
生きしのげならないのなら、この苦しみのすべては意味がない、
というわけだ。
しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。
すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、
という問いだ。
もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。
抜け出せるかどうかに意味がある生など、
その意味は偶然の僥倖(ぎょうこう)に左右されるわけで、
そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
<「メールマガジン作りましたと「夜と霧」の話より」>
生きることの意味とは?の問い掛けに、「夜と霧」がコインの表だとすると裏面の「野火」が答えるかもしれません。